芸能界にあるイジメはファンの狂乱を招く ポスト人間社会を制するやる気の正体

アメリカの芸能界、俳優、シンガー・ソングライター、映画監督などの有名人がトランプ大統領を批判しているが、ここ日本でも芸能人が大暴れをしていて本当に鬱陶しい。
非常に迷惑である。
その中で女子プロレスラーが自殺をした件について、ちょっと考察をしてみよう。
検察庁法務省と同様に始末を付けるべきである。
日本では手を出して殴ったらダメだから、喧嘩相手に先に手を出させて勝つみたいな発想が定着している。
キチガイじみた考え方だが、これが現実である。
この前、元KARAのク・ハラが自殺をしたが、多少の擁護はしていたサトシも途中で諦めた。
だって最終的にはネットでの誹謗中傷ではなくて、芸、スキル、能力を問われたことと、芸能界に居場所がなかったことが一番大きいだろう。
日本で芸能活動をするという意見があったが、出来るならやっているだろう。
自殺をする人を助けても、すぐに自殺をする。
自殺を試みたけど運良く生き残ったら良いが、死にたいエネルギーを解放しないと死に急ぐのは普通だ。
しかも追い込んだのがTV出演者と、番組制作側と、それに乗ってしまった視聴者だからだ。
もしかして番組の関係者がTwitterで叩いていたら、それはそれでリアル過ぎる。
22歳という年齢で普通に生活して、恋や友情を楽しんでいる同世代と意識がシンクロしたらどうなるだろう。
職業は女子プロレスラー
試合ができない状態だからNetflixのリアルタイム番組に出演して、そこでみんなから叩きまくられる。
叩かれた原因は木村花という女子レスラーが悪い。
男女がテラスハウスで共同生活をして、恋と友情をリアルタイムで演じるというものだ。
プロレスラーは強いか、弱いかではなくて、打たれてお金を稼いでいる。
やられて痛そうなのに凄いというイメージで仕事が成立しているので、痛さを強さに変えて初めて一流選手になれる。
やりすぎると試合中に事故で死ぬ。
結果的にハッキリ言わせてもらうと、芸能人が木村花を殺した。
正確には芸能界という仕来りやルールが彼女を死に追いやった。
人間関係が厳しく、コミュニケーション能力が高くないと生き残れない。
その世界にプロレスのノリで登場してしまったために、一斉攻撃を受けてしまった。
間違いを認められない、普通はそんなことしない、悪いのは木村花だと追い詰めた番組関係者たち。
それに対して芸能界、または格闘技、スポーツ選手から、Twitterでの誹謗中傷は許せんと言ってやがる。
気持ちが悪い。
日本の一般人はもう気づいている。
タレントで実力がないから叩かれているのに、私は誹謗中傷されていると言い張っているバカが居る。
女子高生コンクリート事件の関係者なのに、今でも違うと否定して首を吊らないバカも居る。
芸能界というところは人間の本当のクズが集まるところか、それとも天才が集まるかの2種類しかない。
そして芸能人でいられる期間は短い。
仮に誹謗中傷というなら、それで良い。
その誹謗中傷とやらは世間一般でも普通にあるし、一般人も上司や先輩に罵られて、薄ら笑いを浮かべて必死に堪えている。
たった500万円、いやもっと少ない200万円しかない給与のために頑張っている。
その端金を得るために熾烈な生存競争を戦っている。
芸能人で働くのが嫌なら、底辺の生活に戻ったら良い。
芸能界が椅子をいっぱい用意してタレントを多く座らせると、一般社会にひびが入る。
タレントに入る報酬はCM料から払われているので、消費サービスに加算されてしまう。
要するにタレントの給与は一般消費者が払っているので、お客さんに対して文句を言っているのである。
タレントは企業CMの出演料として貰っていると思いたいのだろうが、まったく実態は違う。
消費サービスから頂いているギャラに対して、まったく感謝がないから叩かれているのだ。
そして政治発言をするタレントは落ち目だから、自然に誹謗中傷されるのは当たり前だ。
そんなに芸能界を良くしたいなら、お前が芸能界から引退するべきだ。
基本的に女子プロレスラーは体力的には、男子よりも遥かに弱い。
弱者なのに男子に暴力を奮ったし、上から目線で講釈を垂れた。
さらにコスチュームを洗濯機に置き忘れてしまったために、出演者のお笑いタレントに洗濯をされてしまって着られなくなった。
記念のコスチュームだったから怒りまくってプロレスラーらしさを示すが、周りは冷ややかだった。
周りの目は女子レスラーは大して強くないし、何で粋がるのという視線だ。
そこを女子レスラーは強いし、リングで戦っている戦士みたいな調子で奮い立つから、その痛さがTV画面を通して伝わってくる。
周りの女子たちに何で女の子らしくしないのといった感じで問い詰められて、もらい泣きをするところで完全に落ちてしまった。
女子レスラーだから強がっているだけで、実際のプロレスはショーに過ぎない。
女の子が色気を振り撒きながらプロレス技を繰り出すところで、多くのファンが喜ぶ見世物だ。
TV出演をしているタレントや有名人がいけしゃあしゃあと騒ぎ立てているが、自分たちの心の裏返しである。
TVに出たいという思惑は日本では出演料が法外に高いからだが、それだけではなくて目立ちたい、自己主張したい、同じ有名人と一緒に働きたいといった一種独特の世界観がある。
芸能界に居たいという強い自分へのプレッシャーが、自分たちとは異なった存在を殺してしまう。
番組内容が動画で残っているが、出演者全員で木村花を叩いて悦に入っているところがクライマックスである。
TV出演者からしたら木村花はブサイクであり、態度がデカく、物言いも常軌を逸しているだろう。
テラスハウスという番組構成の中で異色の存在を作り出して、そこを重箱の隅を突付くようにこれでもかと叩いていく。
そこで演じられている心の具現化は、数秒先を予測しながら1ヶ月先を見通すようなコミュニケーション能力を必要とする。
全体的な世論と、実際の世相、そこに成功法則やビジョンを絡めて演出をすることが芸能界で長生きをする秘訣である。
偏った意見を述べているタレントも、実際はファン層を大事にしているから問題はない。
寧ろ良いことを発言しているからと言って、この人気や知名度が重要な世界で一人語りをしてしまうと立場が危うくなる。
TVに出演するというのはあらゆる業界の意見を背負うことになるので、相応の実力がないとすぐに足を掬われて破滅を迎える。
仮にこの世界の一面で実力がない、イジメられた、嫌がらせを受けたといって排除されたとして、解雇でもいいが、その状態から跳ね返す力があったら良いのである。
跳ね返すパワーが強いとサトシみたいな奇跡を起こせる。
安倍政権を見ていると分かるのは、意図的に叩かれてイジメを受けることで反発力を身に着けているのだ。
これは孫正義も同じであり、社会的な圧力を跳ね返せる強いビジョンがあるから前進できるのだ。
こういった世界観が確固としてあると、何をしても跳ね返されて逆に利用される。
他人のやる気や長所をエネルギーに取り入れて、すべてを自分に吸収してしまうのである。
サトシはネット上でよく叩かれていたが、最近は怖がって誰も寄り付かない。
エナジーバンパイアだからだ。
他人の不幸を吸い取って自分の力に変えてしまう怒りのパワーは、誰から見ても恐怖だろう。
その代わり孤独との戦いを強いられているが、その孤独感がサトシの強さのバロメーターである。
サトシが感じること、発言、結果、因果関係が雪だるま式に膨らんで世界を包み込んでいく様子は、本人と関係者にしか読めないだろう。
木村花という女子レスラーがヒール役だったらしいが、乙女座だったという点で人生に悲観してしまったのだろうか。
地星座は強うそうで居て牡牛座とともに、おとめ座も弱いことが判明した。
野心家で他人の生気を吸い取って生きているサトシにとっては、まるで別次元の話である。
他人の痛みはサトシにとっては快感であり、強さの誇示である。
考えてみたら分かるが、日本社会は競争社会である。
競争社会であるのに逃げ場所がない。
土地が狭いというのもあるが、それだけではない。
人間の心が小さく、箸が転がっただけで怒りをぶつけてくるのだ。
芸能タレントがいう誹謗中傷は止めろという言動に対して、サトシは自殺をしても騒がれないで醜く死んでいく人間はもっと憐れだぞと言いたい。
木村花が可哀想だけど、ホームレス、いじめられっ子、名もなき底辺が死んでもお前らは悲しむのか?
そんなことはない。
畳の上で孤独死ならまだ良い方だろう。
例えば交通事故で死んでしまっても、それは車社会を歪に進めてしまった結果であると主張したい。
その自動車会社から著名人に支払われたり、役所、政治家、関連企業に利益が回っているから交通事故死者数が減少しないのであるが、その自動車社会を転換すると利益が減るから改革が進まないというのは正しい。
それと同じことで芸能タレントが発する意見によって、多くの人たちが自殺に追い込まれていることを知ることだ。
芸能タレントや有名人からしたらその他大勢の一般人の名前は知らないが、電波を通じて多くの人たちを攻撃しているのである。
SNSを利用した強者と弱者の構図が出来上がっており、弱者が芸能タレントとして高い報酬を得て一般的な弱者から搾取をしていることが悪という図式である。
その点に気付かないとTV出演者という立場を悪用している連中は、もっと悲惨な目に遭うだろう。
官僚、検察官、弁護士、裁判官、警察官を見ていて芸能タレントはどう思うのか。
もしかして政治家が悪くて公僕は悪くないと言うならば、お前らタレントはTVに出ない方が身のためだ。
政治家を通じて一般市民から意見を集めて、この不正が蔓延る日本社会の改革をしている。
その意味が分からない時点で、TVに出る資格がないし、政界に進出する資格もない。
色んな意見があるという発想をサトシはしていないので、他人の意見を取り入れることがあっても導入することは一切ない。
タレントの存在、意見、立ち居振る舞い、そして特権が多くの自殺者を生んでいる原因である。
ふとTVの電源を入れると楽しそうに会話をしているシーンに出くわすが、彼らは一般人の苦しみを知らずに好き放題を言って高給を得ている。
その矛先がテラスハウスの出演者の中では醜く、ブサイクで、外国人の血が混じっていて、悪役レスラーで言動が怖いという理由で攻撃を始めたのである。
何で分からないのか?という一斉攻撃を受けて、悪役レスラーの方が間違っているというレッテルを貼られて生きる希望が無くなった。
今後生きていてもずっとこの調子で893を見るような目で見られ、犯罪者のような扱いを受け、誹謗中傷と言うよりもそれが常識と捉えたのは間違っていない選択だった。
自殺したのは当然の結果である。
有名人がTV出演で自殺に追い込まれたという構図は間違っていて、悪役レスラーの役回りをするという仕事のプレッシャーに耐えられなかった。
ヒロイン役のレスラーと、悪役のレスラーと何が違うのか。
逆転するような場合もあった。
ジャンボ鶴田がその例だ。
実はこんな人間だったみたいな情報リークで、特定の個人のプライベートは台無しになることがある。
サトシは悪役になっているようだが、ヒール役は楽しくて仕方がない。
野心家で出世を希望しているサトシにとって、ヒール役は転職である。
嫌われたら嫌われただけサトシは強大になり、そのパワーは国を動かす。
嫌いな人間、腹の立つ組織、ウジ虫を見るような目でサトシは睨みつけているが、彼らには通じない。
こういう事件を見て安倍晋三麻生太郎を今以上に守ろうと考えるサトシは秀逸すぎるだろう。
自分に酔ってしまって自分が好きで堪らない。
この自殺で見当違いの批判をしている連中を見ると、本当に反吐が出る。
TVに出演するということは本業のキャラクターや個性が捻じ曲げられてしまい、素の部分がなくなるということだ。
この件で名前が挙がっているのは、ZOZOの前澤友作、きゃりぱみゅぱみゅ、ニコル、キックボクサーの那須川天心が目立っていたが、見当外れもいいところだ。
こういった間違った認識があると、視聴者側から見ると本業以外の意見は言うなとなる。
前澤友作を見ていると、反吐が出るほどの人気中毒者である。
人にどう思われているか、どうやったら気に入られるかを中心に生きているから、他人を平気で傷つけていることに無頓着である。
だから会社を追われたしまった。
自分の会社ではない。
他人のお陰で創業者として成功できたのに勘違いをしたから、従業員から関係者すべての総意で追い出されてしまった。
前澤友作を擁護してくれるのは芸能界だけだろう。
自己主張が強く、他人の痛みが分からず、好き放題にベラベラと話を進めて悦に入るバカたちの世界が居心地がいいのである。
那須川天心にしてもイメージが変わってしまうので、こいつもバカなんだろうなと思えると興味がなくなる。
もうTVはイジメ自殺者の養成所として認知されており、芸能人が芸能人を虐めてギャラを稼ぐ場所であることを改めるべきだ。
知らない人間、どうでもいい人間から何かを言われても気にもしない。
木村花が自殺をしたのは番組の関係者であり、その番組を見ていたファンだったからだ。
視聴者も関係者に計上されるだろう。
あれを見てファンだったは通用しない。
あれを見て健全で正しい番組構成だったとは、到底思えない。
それを逆に利用してTwitterを叩いている時点で、Twitterとジャック・ドーシーに対する反抗である。
SNSの文句はサトシに言え!
好き放題をしている橋下徹と三浦瑠麗が弱ってきたところで、どれだけTV関係者、芸能界がバカばかりなのか分かっただろう。
安倍政権はスマートに日本の芸能界からの圧力に対応をしているが、彼らはまったく気付かないか、気づいていても間違いを正さない。
芸能人を見て自分の間違いを正そうという意識を持つべきだ。
世の中の仕組み上こうなっている。
政治的な発言をして一般大衆の権利や利益を損なう発言をするなら、デビューした時にやってくれということだ。
世界的な歌手のプリンスが晩年になって落ち目になったのも、政治的な発言が目立ったからだ。
売れる前に言ってくれないといけないのは、売れているのは協力をしてくれている関係者が各界に居るからだ。
ファンの中にも有力者が居るだろうから、芸能人が有力者を敵に回すと今までの貸しを返せとなるだろう。
商品価値が無くなってしまった芸能人は消されるか、TV関係者から抹殺される。
今回の自殺ケースは粛清されたと見て良い。
番組の出演者がモデル、バスケットボール選手、お笑いタレントなどでどれも美形揃い、成功していく前兆がある。
それに対して悪役の女子プロレスラーで外国人の血が混じっているということで、番組のシナリオを超えてリアルで責めまくった。
その責め方が番組のファンにまで伝わって、その悪影響が木村花に分からせてしまった。
どれだけ日本社会が異端者に冷たくて、どれだけ芸能界が薄汚いところであるかを分からせてしまった。
その圧力、そのダーティーさ、これからも汚い世界で生きていくことに耐えられなかった。
自殺したのは自らの解放であり、リセットボタンを押したに過ぎない。
気分爽快だっただろう。
自分を餌にしてお金を稼ぐひどい連中たちが、狼たちの檻に閉じ込めて視聴率を稼いで私腹を肥やすのである。
悪役なんてやりたくない、だけど自信がない、周囲の自分を見る目が物語る嫌味な目線、そう目が語る誹謗中傷は心に響いたもっとも正しい答えだった。
逃れられない運命ならば死ぬことが正しい道として示された次第であり、この場合はどこにも居場所がなかった。
死ぬことで社会への反対を表現し、自分の意志で生きることを貫いたと言える。
自殺することが間違っているという風潮は正しい認知ではないので、知覚が鈍っていると言える。
自殺をする人間ほどピュアであり、お互いの願いに率直に応えたのである。
頭のおかしい意見を知ったから自殺をしたのではない。
テラスハウスという番組の関係者たちの総意見が断りきれないイメージを作り出し、その巨大な負のエネルギーに吸い寄せられるようにして死を選んだのである。
これがお互いの解決方法だった。
ヒロインになりたかったけど、どこにもヒロインの椅子はなかった。
他人が自分をどう思っているのかについて、本音を知ってしまった。
ビンゴだった。
TV視聴者も、番組関係者も、近い人達も、応援してくれるファンも友達も、みんなが自分を醜いブサイクだと認めて、さらに性格や人間性にまで言及してきたことに対して、それを正しいと思った。
死ぬしか無い。
死んで祝福されることを願った珍しいタイプだが、多くの自殺者の本音は恨みではなくて肯定だったのかも知れない。
相手を恨んで死んでいたら遺書に書き残すからだ。
日本社会に死角はない。
どこにいっても比較と差別を混同されて分類項目に当て嵌められ、その檻から逃れる方法がない蟻地獄を迎える。
TOYOTAがリアクション芸人は凄いといって煽てていたことがあったが、番組の構成とその視聴率がCM効果に反映されて自動車販売に反映されるからだろう。
間違った社会観、間違った人のコミュニケーション、間違った教義は完成形の見本がないからだろう。
見本がない自由な民主主義の波動が知覚を中心にして、人間の素性を形成してしまう。
勝手に作られたイメージは形がない上に自由だから、何でも言った人の勝ちになる。
言った人の価値が勝ちになるとは、そこで人生の設計パターンが決まってしまうのだ。
テスト試験と就職面接を乗り越えられないと死んだも同然だが、これと同じことが一般社会にも蔓延している。
その蔓延が偏差値地獄と、就職氷河期を生んだのだ。
結果が生まれるためには原因があるので、根本的な問題を掘り下げないと解決策は生まれない。
自殺を他人のせいにするよりも、自分たちの世界観や対人コミュニケーションに問題がなかったかを検討するべきだ。
自殺する理由は死ぬことが正しい道と見つけたからであり、無気力だったら死ぬことも不可能であることが理由である。
このように日本社会では長い戦乱の中から生まれた統一性が育まれているので、異端者を差別して死に至らしめる氷の刃が至るところに仕掛けられている。
とにかく冷たさ、非道さ、相手を沈黙で殺す動作で完成した究極の美意識が相手への否定である。
否定が美意識である日本社会では、人の命が差別と直結している。
差別されたら死ぬしか無いのである。
殺してはくれない。
自分で死ねということだ。
立川志らくはひるおびという番組内で、就職氷河期や貧乏人、そして差別されている側に頼むから首を吊って一人で死んでくれとお願いをした。
その一言が芸能界の残酷さとサバイバルを如実に物語っており、人気を得るためにファンを利用して自分の側に手繰り寄せる。
そのファンたちは自分の偶像を守るために正義を貫いて、敵を殲滅するまで討ち滅ぼす。
言論は武器であり、ペンは核ミサイルよりも現実的な大量破壊兵器であることを知ろうとしない。
使用できない脅しだけの核ミサイルと、いつでも人を誑かして攻撃性を生み出す言論という武器に対して、芸能界と大衆は間違った教義を体得している。
無言から始まる殺人の美学は差別と格差を生み出して、徹底的な誹謗中傷の渦中に人心を惑わす刃となる。
この始まりは自分だという意識が足りない。
さて自殺と社会学に対する真実と、その現象を説明するのはこれで終わる。
サトシとしては引き続いて安倍晋三麻生太郎の意思を説明しながら、サトシの方からも提言して世の中の発展に寄与するまでだ。
とにかく対立の構図を描いて自分の立場だけを維持しようとする卑怯者は、このサトシが自ら成敗するまでだ。
SNSの責任を追求するとは、この世界の理に対する冒涜であることを知るべきだ。
反乱者である芸能タレントは、鋭利なナイフで首をかき斬られて死ぬ可能性がある。
政治批判をするものは自分の太刀筋から流れた返り血を浴びて、間違った人間の業を知るのである。
人間は愚かではない。
人間を愚かと諭す者が愚かである。
バフェットはティファニーへの株式投資を断念した過去があるが、好きな企業の銘柄を買わないらしい。
好きな人間に商業的なメリットはない。
嫌いな企業に投資をして骨の髄までも吸い尽くし、その間違った性根を叩き直すことは正しいと言える。
成功を阻む理由と商業的な成功は相反することだが、その根本は敵を利用したビジネス的な成功を享受したからである。
成功の法則の中でも敵との和解があるが、薩長が同盟を結んだことで260年も続いた徳川幕府は滅亡したのである。
しかし敵との協力は先の未来に対する不安要素も多く、もし利害が一致しなかった場合の対処が難しいからである。
利害が一致しないとは自分の信じる道への過信であり、時代は時間とともに状態を変化させていることを知るべきだ。
昨日の価値と今日の価値は違う。
永久に普遍の価値はないが、そこに価値を見つけることが儲ける仕組みである。
儲けるとは社会改革を意味しているので、価値を変えることに意義がある。
価値を変えて変遷に対応した社会改革では社会状態に応じて、その価値を変えていくことは可能である。
デジタル化社会とは社会そのものをデジタル化することであって、人間がデジタルになる方向にあるということだ。
人間のサイボーグ化とは機械と人間の融合の先にある人間のサイバー現象であり、人間が電子世界に入るために才能を開花することである。
もしこれが正しい場合、世界は入り口と出口が繋がっているとなるので、人類は滅びることで成長を遂げる。
滅びることと誕生することは、同意語であると百科事典に載るであろう。
今あるものに心を奪われた人間は、もう終わった人間である。
終わった人間、諦めた人間、成長をしない人間に明日は訪れない。
文句を言って社会に大きな波紋を投げかけている反対派という敗残者たちの言動は、聞くに堪えない代物であることは成長を止めたからである。
自分だけお金を稼いで他人が成功することに対して、大きな妨害をすることが反対派の真意である。
成功とは次の瞬間に敗北をすることで、その栄光の価値が高まるのだ。
敗北は新たなる成功の道筋なのに対して、その成功を認めないのは退化である。
だから否定から入って新しいものを認めないのであるが、これは退化した人間たちの妄想である。
妄想から始まる社会改革は死人の怨念に過ぎない。
世界はコロナウィルスによって経済的な混乱をしているが、クラウド事業は進んでいる。
今後も半導体の製造は多忙を極め、不良品を出している暇はないほど忙しさが続く。
今のレベルを簡単に超えられないと、この先にある製造業の革命は起きない。
大量生産の形態が変化することでしか、このモノ作りは改革できない。
お金がかかることではない。
考え方が変わるだけだ。
その考え方が変わることが、製造装置を変えるよりもお金がかかるということである。
人類が一斉に考え方を広い視野から見たら、一気に社会文化に革命が起こるだろう。
一瞬で世界を光の速さで駆け巡る人類の成長は、この世界を新しく作り変えるはずだ。
ZOOMが流行になっているが、オンライン飲み会もネットゲームでは10年以上前から行われていた。
チャットツールを利用したビジネスも、ずっと以前からネットゲームや出会い系で利用されていた。
オンライン取引もネットゲーム内で頻繁に行われていたし、円やドルに換金することも行われていた。
ネットゲームは人類が初めて知ったオンラインでの共同作業であり、距離と時間を0にしたビジネスとしてテレパシーを具現化したことに成功したと言える。
今あるAR技術は人間の機能を増幅し、サイボーグよりも素晴らしい性能を発揮するだろう。
VRはサイバーとリアルを混在した形で、人間社会を大きく発展する。
その要になるのがマルチクラウドであり、人間のアナログな言動をすべてデジタルに変えてしまう。
デジタルが正しいのはどこにいても、誰でも、何をしても正しく数値で測れるので、社会全体がひと目で分かる事を意味している。
今ある猜疑心や疑念は根底から消えて、誰もが仕事や報酬を自由に得られることに繋がる。
どう考えても三田会などの学閥が日本を支配し、就職、職種、業種に制限を設けており、その立ち回りにも大きな負債を抱えるように仕組んでいるからだ。
目に見えない裏取引がこの日本を自滅の道に進ませており、その真実を知りたい人たちを誹謗中傷をするゴミクズだと糾弾している。
欲望に包まれた暗い欲望はお金を独占するために、人心を惑わして社会そのものを疲弊させる。
自分が信じている正義はあまりにも小さく、他人の正義も弱小である。
人間が発する正義に意味はない。
人間から成長を遂げて新しい何かに生まれ変わることを希望し、脱人間化を図ることを時代は希望している。
ポストヒューマン社会が希望されているのに、人間はあまり役に立たない。
人間が中心となる世界では地球は滅びることは間違いがなく、それを阻む勢力は間違いなく妨害者である。
自分の富、成功、権力、人気を独占して蓄えたいがために、あらゆる競争原理を阻害し、人間の文明さえも破壊するのである。
人間は集まることで差別をして、好きな人間だけを選別する。
その選択は利益があるからであり、その利益を独占したいからだ。
狭い場所に閉じ籠もって安全なところから敵と認めた人間だけを攻撃し、自分が攻撃されると10倍になって怒り狂う。
その怒りが大きければ大きいほど、その問題に対して損害が大きいのである。
損害が大きくない方は不死身だから志願してまでも、その戦いに身を委ねるだろう。
滅ぼされるのは承知しているから、少ない富を分けてもらうよりも戦いを選ぶだろう。
血肉を分けて戦うよりも精神的な攻撃を武器として、今後も熾烈な生存競争が続くはずだ。
この現象は時代が人間を不要と見ている次第であり、人間以外の存在をトレジャーハントする時代を意味している。
もし生身の身体を持っていなくても、脳が何らかの形で精神を具現化出来るならば生きていることを証明している。
その形が何であれ、自分は生きているのである。
もし脳が無くなって、存在が目に見えなくても生きていることを証明できたら、今ある地球の文明や人類は消滅して、新たな存在が誕生するのである。
人類は創作をして平和を歌い、争いを止めようと必死であるが、その真意は違う。
目指しているのは科学の発展である。
人間中心の文化を中止するために、その命の価値までも変えてしまう科学が誕生するための布石である。
そのために平和を叫び、戦いを諦め、善であることを正しい道と欲しているのだ。
その先にあるものは人間ではない。
これからの文化は人間以外に進化するための道筋であり、人間でありたい人間を滅ぼすことが正しいとなる。
人間は人を必要としているから狭いところに密集をするけども、人間以外の生命体はテレパシーで交信をし、移動も一瞬でテレポートする技術がある。
それが飛躍していると考えるよりも、その進む先にある方向が希望しているのは人間以外のものなので、人間を遥かに超えた超人を生み出すことが経済の目指す正義である。
価値とは無いものを求めて、遥かに遠く及ばない自分を抜け出して、まったく違う未知なるものに変身することで、その欲望を満たすのである。
コロナウィルス後の世界に待っている試練は不完全な人間の脆さを痛感して、人間が人間を改良するサイバー空間に耐えうるサイボーグ計画であろう。
単なる機械人間では足りない。
死んでも自分を残せる時代を人間は求めている。
自分が自分が自分がといった自分を大切にする自己欲求は、やがて自分だけの世界を形成して争いを消滅するだろう。
やる気と面倒臭さは昇華して、自分をどれだけ極大化することに腐心する。
無限大のサイバー空間では希望を叶えることは可能であり、その質や量は上限がないのである。
ご飯を食べなくて良い、疲れることもない、眠ることも成長のうちであり、人とのコミュニケーションは新しい宇宙を作ることである。
人間が望んでいることは自分の世界を持つことである。
大きい小さいはあるし、多い少ないはあるが、自分の王国を作ることが究極の夢である。
人間一人一人が希望を叶えて夢を具現化する世界観、これが人類が目指すべき新世界である。
人間がというのもこれも立派な差別であり、特権である。
その特権を一部の人間ではなくて、すべての人類に分け与えることで人間は形を変えて進化を続けるのである。
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