三島由紀夫「私は安心し切っている人間が嫌いだ」 死と隣り合わせにある幸福の実現

三島由紀夫が東大全共闘と対峙して語りあった動画を冒頭に持ってきたのは、世界にとっても重要なことだからだ。
安心すると人間は感覚が麻痺して外界とのコンタクトを忘れてしまい、自分だけの世界、または自分たちだけの世界に閉じ籠もってしまう癖がある。
それが習性でもあるかのようにして集団組織を形成し、そのコミュニティ内でのみ通用するルールに長けていく。
法律やルールとは古代の歴史の中で人間を教育する目的で作られているのに、その教育がルールや法律を神のごとく崇めてしまうことがある。
その延長上にあるのが倒産リスク、引き篭もり、リストラ解雇、財政破綻などの移動を意味もなく嫌う弊害だ。
ルールは人間に常識のある行動をとるために与えられたものなのに、逆にルールが人間から常識を奪ってしまう弊害について誰も指摘して来なかった。
早い話、解決方法がすでにある。
その解決方法に移行するまでの待機期間が今の混迷した過程にあるのだが、人間たちはほぼ誰も気づきもしない。
選ばれた人間たちだけで難局を乗り越えていき、やがて誰も見たことがない高みへと登ろうではないか。
気づきもしない、ヘラヘラと笑っているクズ、豚のように肥え太った能無し、将来へのビジョンを持たないもの、変革をする意欲がないものへの警鐘がサトシの提言である。
このBlogを見て何もしなかったものは地獄の業火で焼かれて挙句の果てに、地獄の最下層にまで墜ちて朽ち果てるだろう。
ルールがないと常識的な行動ができない人間と、ルールを過信して平気で人を裏切る人間は同じ人種である。
要するにルールがない時代には組織は成立しなかったことと、ルーが起きて常識に目覚めた人間とは、どれも同じ人種である。
わかり易く言ったら理解していないし、悪用して自分の都合の良いように改変するだけに過ぎない。
悪党が悪いなどという陳腐な能書きを垂れているのではない。
正しい人間の質とは何をやっても、どこの場所でも、いつの時代でも、同じように未来を見続けるように出来ている。
これに対してどの世界、どの時代、どの環境でも同じように間違いを起こす愚か者が現れる。
彼らには大義は分からない。
偉大な業績への畏敬の念はない。
自分が立身出世しようという気概もない。
出来ない人間とは怠け者を指しているが、いつも間違ったことを広言して失敗を行っている。
どう考えたら毎回毎回において同じ間違いを犯すのだろうか。
科学者たちとの語らいはサトシにとっては至福の時である。
この至福の時は掛け替えのない時間であり、サトシが任務に就く時の心構えになっている。
現実世界と科学史の探求においてサトシは十分に共鳴を応用して、彼らと語り合ってきた。
そういった世界の壁を乗り越えての付き合いも、すべてが愚か者の人類に対する警告である。
人類はここで滅びるわけには行かないが、彼らのような愚者との共生は不可能になりつつあるからだ。
共鳴が共生に移行できるかどうかは、今後の人類の考え方次第だ。
ルールが確立するまでは暴れ、叫び、妨害をしていたはずであり、ルールが確立してからも同じことを繰り返していると考えている。
物語には起承転結がある通り、歴史も同じことを繰り返しているし、組織でも、社会でも、人間でも何でも同じような軌跡を辿っているはずだ。
物体が軌跡を辿るだけではなく、人間の考え方も生き方も軌跡を辿っているはずだ。
前回書いたように宇宙の構造と人間社会の様相、そして価値観などは一寸刻みで変化している。
人間は360度の輪の中に線形でぐにゃっと変形したような形で、至るところに整然と並んで均等に枠組みに収まっているはずだ。
映画を作るには出演者も必要であるが、スタッフも必要であり、その環境を取り巻く投資も必須だ。
同じ作品を作るにしてもセリフの1つ1つでまったく違った作品ができるし、受けての捉え方、社会風潮、社会情勢、貧富の格差、世相を反映して受け取り方はいつも変わっている。
人間社会の観念が変化の中にあって均等に整列していることから、量子力学の世界でも電子は人間の思考と同じような作用をしていると考えて良いはずだ。
今もこうして科学者たちと共鳴をしているが、この現象も思考エネルギーは空気を貫通してダイレクトに相手に届くのである。
電子または謎の粒子が相手めがけて飛来しているというのか、考えたと同時に相手の心の中に存在していると言うべきかは分からない。
単純に言えばBlogに書いたものを見て判断したのだが、そう単純に捉えるべきものではない。
インターネット、SNS、Blog、ネット掲示板は不特定多数の人たちを繋げる作用があるのは、マイナスの負荷を持った電子の為せる技である。
書いてある文字を見たからではない。
書いてある文字にこそ電子のマイナスの負荷が働いているのだ。
さっきのルールがあっても、ルールがなくても常に間違った行動を起こす人間たちの振る舞いは量子のノイズに近い現象である。
近くに凝り固まって人の悪口を言って生産性を下げ、何をしても言い訳を続けて働かない。
どうしても近いとノイズに妨害されて情報伝達が狂ってしまい、何をやっても上手に行かない。
挙句の果てにはまったく畑違いの遠い場所にいる人達に簡単に抜かれてしまい、すべてを奪われてしまう。
文明の発祥と継承の過程で行われる文化形成を見ていくと、この量子力学の電子の振る舞いに似たことが多くあるはずだ。
職場に凝り固まるソドムとゴモラの様相は崩壊の序章として始まり、まっしぐらに滅びへと向かっていく。
時代背景、政治手法、国際関係、経済格差、技術的なイノベーション、社会文化を見ていたら統計的な確率に応じて時代の先は読めるはずだ。
だから量子力学の電子の振る舞いについても、人間社会と同じように状態の重ね合わせを起こしていると考えて差し支えがない。
世界が階層になってレゴブロックみたいに積み重なっているのではなくて、思考、感覚、発言、事象そのものも積み重なっているのだ。
そして違う世界とはこの世界を水平に1度ずらして、垂直にも1度ズラして、そして1度と359度ずらしていても良いし、ぐにゃっと曲がっていても電子には影響を与えない。
人間が斜向いに見ても、裏側から眺めても、まったく反対の世界に移り住んでも物事の本質は何も変わらないのと同じだ。
円の環の中に三角形が色んな角度で敷き詰められている中で、その総和がすべて重なったときに初めて量子もつれが起こるのである。
コンピュータはマルチスレッディングで計算をしてそれぞれの役割を果たしているが、最初から同じ計算として纏めることは出来ない。
コンピュータも違う世界を跨いで思考したり、計算したり出来ないようになっていて、都合が良いように見えないような工夫が出来ているのだ。
見えないようになっている仕組みについて、見える化しようという試みは非常に困難である。
見えない世界を暴露して脚光を浴びているサトシから見ていると、何故世間からは見えないのかということと、何故内部からは見えないことを分かっていて悪いことをしているのかだ。
見えないから悪いことが出来るならば、量子力学は見えないことが組み込まれていることを前提にして出来上がっていると仮定して良いはずだ。
内部からは外部が見えないことが一般的であるが、内部の人間たちはそれすらも知らないし、見えないのだ。
彼らのような内部のことが分かる人間は、一体どういった行動を取るだろうか。
どんどん外部を無視していって小さな集団にまで引き篭もりを続けて、やがて2人という最小単位にまでグループを小さくしていく。
外部から見えないという量子力学の電子の振る舞いは、この現実世界さえも見える化が必要であることを物語っている。
そして補足として必要なことは、内部の人間は外部から見えないことを知っている傍らで、逆に外部のことを知っていても分からないのである。
見えても、分かっていても、告知されていても、内部の人間は外部世界を読み解くことが出来ないのである。
階層社会の構造は外部構造にパーミッションを与えることで視覚を封じるとともに、ルールや常識を牛耳っているから理解の外に位置づけられている。
しかしルールや常識を牛耳っているはずが、何も見えていないのだ。
外部が見えない状態では内部も見えていないことに気づかないから、そこを勘違いして多くの間違いを起こしている。
内部にいる人達は下部構造の中にある階層の底部のことも理解できずに、この世界の仕組みの中で右往左往しているのである。
内部が見えて外部が見えないことはない。
それは内部も見えていないのだ。
内部と外部を見えるには特権が必要であり、そのライセンスは特異点か、それに近い人にしか与えられていない。
イノベーションを起こして外部と内部の両方を見渡し、さらにノイズを避けて共鳴をする技術や能力が必要になる。
一般的に天賦の才という領域にベクトルを置く人たちが存在し、彼らとの思考ゲームは非常に楽しいと感じている。
AIやロボットが自動運転を完成させると、自動車が社会に組み込まれてシステム化するだろう。
その過程で工場搬送のロボット群は一斉に自動で稼働するし、遠隔操作で十分な成果を出すはずだ。
そのすべてを網羅して全体的な稼働率を高める働きをするのは、人間ではなくて量子コンピュータである。
量子アニーリング最適化問題を解く方向にあるとして、量子ゲート方式は汎用的な量子コンピュータとして機能をする予定である。
サトシが念頭に置いているのは、もし有る世界と無い世界ではどう違うのかだ。
例えば何かのアクションをするとして、行動をしたときと、行動をしなかった時とでは未来はどう変わるのかだ。
一人の人間が判別できるであろう行動をした後と、行動をしなかった後の世界の流れを測ることは可能である。
そして行動をしても、行動をしなくても、この世界は動き続けている。
この世界は物体なのか、物質で出来ているのか。
それさえも違うはずである。
統計的な確率が働いているのも確かであり、マイナスの負荷を持つ電子は人間に黙って勝手に世界の事象を変えているのだ。
ある人間が何かを行動しても、行動をしなくても、それは大きな影響を与えない。
もちろん外部からは見えないからだ。
都合が悪いものは見えない事になっている。
言葉を発することで何かが変化するのであれば、言葉を発しなかったら違う世界になっていても誰にも分からない。
判別をするに足りる証拠がないからだ。
見えていないから誰にも分からないのであれば、では事実も分からないはずである。
一般社会には壁があるし、仕切りがあるし、仕組みが違うし、人の影で中までは見えないのなら、それは見えないような仕組みがあるというよりもスイッチが入って全体の景色、または仕組みが入れ替わっていると仮定できないだろうか。
舞台で背景を変えるためにセット装置を変えるために、幕を下ろして準備をすると中は見えない。
映画のワンシーンを撮影するためには編集をするし、何度も撮り直しをするが、誰にも内情はわからないし、それは未公開映像として非公開となる。
噂、過去の経緯、真実、本当の話、嘘、童話などを連想してもらって、この間にある遮蔽物が何であっても中身が分からないことには変わりがない。
見えないからだ。
その見えないとは目が見えないからではない。
スイッチが入って仕組みが入れ替わる準備が、一瞬ですり替わったからだ。
周波数があると同じように人間社会も多数のチャンネルで構成されているし、その周波数を無駄に浪費しないために多層化構造になっているはずだ。
1つのアクションをすることで1つの階層にいくつもの下部構造が完成し、入れ子状態になっていると考えられる。
いつまでも説明しても分かる人は分かるし、分からない人は分からない。
結果的に人間の目では見えない領域を見るためには、マイナスの負荷を持つ電子を特定することが先決である。
その具現化がさっきの見えない分岐にあって、どこで何がどうやってボタンの掛け違いが起きたかを分析できたら完了だ。
ダイアグラムを関係者全員から集めて一斉に計算し、分岐するすべての事象を網羅することが可能になる。
分岐しないことと、データの可視化は同意語になる。
現実社会が分岐することによって一般的には見えない状態に入るが、その変化を収集して統計化することで確率的な成功を収める方法が可能となる。
考えてみたら分かることであるが、人間社会にはビデオカメラもあるし、一般人が個人撮影もしているし、動画が仮想ストレージの中に保存されている次第で、その様相からして世界の仕組みは丸分かりになるはずである。
要領としては世界中で起こる現象をすべてカメラに収めて、データの保存することが望ましい。
しかし不可能であるからこそデータを数値化したり、CGにしたり、統計データとして確率に求めることが必要である。
パターンに分類して批判的にカテゴライズすることで、一定のパターンを見破れるはずだ。
少ないデータを有効に取り扱うことでデータ容量を少なく出来るし、外部世界からまったく違うデータを運び込むことで可視化に成功できる。
AI社会を形成するためにはデータ容量を減らすと同時に、パターン分析をCGから取り寄せることでゲームシミュレーションを実現するとよいのは、誰の目からも明らかである。
従ってAIと量子力学は相対的に相性が良い。
そこで考えられているのが1つの電子を測定して重ね合わせを実現するのではなく、電子を1つのブロックに閉じ込めてパターン分析する方法を導入しようとしている。
絶対零度の環境下の方が粒子が同じ方向を向いているので、重ね合わせがしやすいのは当然である。
その重ね合わせそのものをパターン化して記録し、動きを特定できる方法が実現したら良いのである。
とりあえず最適化問題を解くには、もっとも良い状態を測定して量子重ね合わせ専用の統計を用意することだ。
イジングモデルを用意するには最大限の見えているデータを収集することが必要であり、分岐して繰り返さない微細なデータも見逃さないことが必要である。
ビッグデータよりも目に見えないミクロなデータの方にこそ、より品質の高いデータが隠されていると言える。
一般的に数の多い理論が優勢になる現代社会では、数の多いデータが貴重とされる事が多々ある。
しかし量が少ない希少性の高いデータにこそ、本質が隠されていることは間違いのない事実である。
巷では京都大学理研の望月教授がABC予想を証明したとして、世界的に高い評価を得ている。
巷では多数の宇宙が存在していることに驚きを得るとともに、その主体となっている古有数が少数しかないことにも驚いているようだ。
データ容量は少ない方が良い結果を生むので、分岐して枝分かれ手している過程を見えないようにマスクすることで宇宙は完成しているように見える。
半導体にもマスクをして区画をするし、マンション工事もセメントを片枠に嵌めて区画するし、3DプリンターはCGから予想して仮想の区画を応用している代物だと言える。
ザルに水の語源もこの意味に近いだろう。
ただ形が見えない状態、場所を特定できない環境、分岐していたり、見えない構造になっている時には3次元社会の法則では何も出来ない。
ルールを守ることとルールを守らないことは、同一線上にある同じ事象であることが理解できるはずだ。
ルールを守って起こる結果と、ルールを守らないで起こる結果は、この世界の仕組みの中では同じ処理に属するのである。
しかし変数が存在する。
等しく同じことを繰り返して成功と失敗を繰り返すときと、回数的に頻度が偏るときでは変数が違うことを意味してしまう。
要するにバランスが崩れることで分岐しているうちに歪む身が起きて、その結果に空間に亀裂が起きて一部の人たちに問題が発覚するということだ。
この世界は騙されている人間が正しいのであって、騙されているうちが花である。
騙されていることに気づいてしまった人間は、この世界の仕組みについて頭を悩ませる日々が続くことになるからだ。
しかし結果的には悩んだ分だけ世界を変革するリーダーとして、この時空に金字塔を打ち立てるはずだ。
一定に時間が流れているように感じるこの世界には、実は分岐点が存在して切り替わりが見えないようになっている。
その分岐点が偏らずに正常化しているうちは問題がない。
しかし変数に偏りが生じるとバランスが崩壊して行く過程で、綻びが一般的に見えてくる。
その綻びを予測して最適化した場合に、社会全体で自動処理が実現する。
AIによるロボット操作が完璧となる。
一部だけをAIにしても意味がないし、そのために量子コンピュータを用意できない。
データ量が多くても困らないコンピュータと言っても過言ではない。
量子コンピュータの利点はデータ量が多いほど、その活用が容易になるべきだ。
その理由は古典コンピュータでは電力量が大きいこと、計算するのに時間がかかること、ビッグデータを解析するように作られていない点が挙げられる。
社会と組織、人間と集団、政府と市民活動、マスメディアとSNSの相関関係を見ているうちに量子力学を解くヒントが見つかったと言っても過言ではない。
BlockchainとAIは密接な相関関係にあるが、その理由も量子力学との関係性において見える化の布石に用意するべき必要があるからだ。
マクロとミクロの世界構造も同一視しても良いくらいであり、大と小は相関関係にある中でも本当に分かりやすい事象だ。
その切り替えるタイミングが分かると、それが予測となってあらゆる事象を予想できるようになる。
雨粒1滴の雫の変化点を量子力学のモデルに置き換えて分析することで、通常では見られないパターンや背景を補足できるし、違う角度からの情報データを解析する準備を進めることになるからだ。
世界は多層化しているし、複数に分かれているが、そのどれもが関連しているのだ。
複合的に重なり合って多世界を形成し、1人の人間そのものが切り替わって存在しているのである。
セット舞台が変更になっても、主人公は変わらない。
主人公が変わっても、セット舞台の道具は変わらない。
小説の中にいる主人公たちは小説家がイメージした自分であり、また誰かの継承に過ぎない。
したがってイメージの中にある事実が具体的に継承を通じて、本の中にだけ存在を許されているのである。
もし生まれ変わったら動物、昆虫、鳥類、両生類、どれになるだろう。
生物とは限らないし、創作物であるかも知れないし、また木や草や石かもしれない。
もちろん惑星になって生まれ変わるかも知れない。
思考することで生きていると解釈するよりも、存在することに思考があると解釈するべきだ。
存在しているから疑問に思うのであって、存在していないと疑問を得ないから完全に無いのである。
無い世界が必要になる。
人間が生まれた過程には何もない世界があって初めて成立することが、これで理解できるはずだ。
疑問とは完璧ではないことで起こりうるが、それを理解するのは日本の一方的なコミュニケーションにある。
日本社会では質問は許されないし、お店ではクレームは許されない。
会社組織では一方的に説明されて理解をし、顧客も質問はない方が好ましいとされる。
この現象を見て分かることは完璧なる世界には質問がない、だから無がすべてだった。
質問があるとは存在があるからであって、存在を認めていないから質問が許されない。
それがお店でも、会社でも、対人関係でもそうなっていることに改めて疑問に感じずには居られない。
欠陥社会である日本の国家観を全廃して改革を続行することが、すべてにおいて正しい道徳である。
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